『冬の草原のエピソード⑤』牛の屠殺
今回はかなりショッキングな内容になるかも知れません。
羊や山羊を屠る場面を、実際に見たという旅行者は、少なくないと思う。
モンゴルの多くのゲルでは、初めての大切な客には、歓迎の意味を込めて、よく羊か山羊を一頭屠り、その新鮮な肉を振る舞う。
また、屠る行為を客に見せることも快しとする。
ところが、牛の屠殺を見たことのある旅行者は、そう多くないと思う。羊とはかなり事情が違うようだ。
私は牛の屠殺と解体に、最初から最後まで立ち会ったことがある。
これも最初にモンゴルに行った時のことだ。
普段は穏やかで、優しいゲルの主人だったが、私は一度だけこの主人に凄い剣幕で怒られた。今でも忘れられない思い出の一つになっている。
今日屠られる一頭の雄牛が、浅く雪の積もる丘の中腹に、主人ともう一人の男友達によって連れて来られる。
写真を撮ってもいいと聞いていたので、私は二人から少し離れた場所にカメラを持って立っていた。
最初に牛は何か臭(いお)い袋のようなものを嗅がせられる。

それが済むと、友達は牛の鼻に通した革紐を、思いっきりぐいっと引く。友達が牛を固定する役目だ。 牛は自分の運命を悟ったのか、力強く踏ん張って、引っ張られまいと抵抗する。 しかし、皮肉なことに、この必死の抵抗が、後に容易な屠殺を許すことになってしまう。 主人は1m位の柄が鉄製の斧を握りしめ、牛がしっかり固定されるのを待っていた。 この斧の背、刃ではない、背の方で、いわば斧をハンマーの代わりにして、牛を強打しようというのである。 牛の頭部が固定されると、主人は重い斧をゆっくりと腰の高さまで持ち上げ、その額に狙いを定める。 このあと私は、彼の斧を振り被る動作を確認すると、すぐにカメラを構えた。 すると彼は咄嗟に私に振り向き、「NO!」と叫んだ。 凄い形相だ。主人のこんなに怖い顔は初めて見た。 あまりにも唐突だったので、何が彼の気に障ったのか分からなかった。とにかく私はカメラを下ろして「オーチラレ(ごめんなさい)」と言った。 そうか、屠殺の瞬間を撮影するのが駄目なのか。 しかし、しかしだ、ご主人。 この屠殺の瞬間をカメラに収めなければ、恐らく私は日本に帰って一生後悔するだろう。 私は気を取り直し、盗撮を決め込んだ。 彼が私を見ていないスキを見て、すぐに撮影できる体勢をとった。 彼はまた斧を振り上げる。 チャンス到来。斧の背が正に牛の額に到達する前の、実に絶妙なタイミングにシャッターを切ることができた。文字通りの隠し撮りである。 しかし、私は自分に誓った。 この写真は私の心の奥底に仕舞い込む記憶と同じだから、絶対に公表しないと。 よく考えると、主人が怒るのは当然だ。 一頭一頭に名前まで付けて、苦労して育てた自分の家畜のことだ。動物とはいえ、個性もあるから、育てるうちに情も湧いてくるだろう。 その家畜の命を、自分達の生活の為だけに無理矢理奪うのだ。 もしかして、今日という日は、遊牧民の生活の中で一番嫌な日かもしれない。 そんな切ない瞬間を、私のような単なる旅行者に、写真なんか撮って欲しくない。 こう思うのは当然のことだ。 牛は一度の打撃では、倒れない。 主人は二度、三度と試みる。 そうすると突然、牛の全身から力が抜ける。括約筋も完全に緩むから、小便をザーッと滝のように垂れ流す。 さらに二度、三度の強打。 遂に牛はその巨体を地面に沈める。 だが、まだこれで死んだ訳ではない。 恐らく脳しんとうの段階だろう。脚がピクピクと僅かに動いている。 主人はすかさず腹にナイフを入れる。動脈を切断するのだ。 こうしてやっと牛は全ての生命活動を終える。
牛も羊と同じように、大地に血を流さない。血は全て盥に溜められる。

この後、牛は家族や仲間達が待つゲルの近くまで運ばれ、いよいよ解体が始まる。 ◆ まず全身の皮が牛の姿そのままの形で剥がされる。 まだ体温が残る、もはや肉の塊と化した牛の体からは、白い蒸気が湯気のように立ち昇っている。

さて、ここからの肉や内臓の切り分けは、女性、子供を含めた参加者全員で行われる。 それぞれの役割分担は予め決まっているかのように、作業は終わるまで黙々と行われた。 これを見ていると、何か厳粛な儀式を見ていような気になった。
切り分けの後、解体の現場には、何も残らない。くるぶしから先の蹄(ひづめ)が4つ、転がっているだけだった。 牛も羊と同じように肉の他、内臓も血も、全てを利用し尽くすのだ。

いま私の手許には、屠殺の瞬間を撮った写真以外に、解体から切り分けまでのプロセスを順番に撮った写真が20枚位ある。 今までに何度か、この解体の写真だけでも、公表しようかと思ったことがある。しかし、まだ決心出来ないでいる。♣