『冬の草原のエピソード①』

さすがに今はあまり見なくなったかも知れない。10年位前まではモンゴルのどの家庭にも、これと同種の魔法瓶があった。ほぼ100%の確率であった。
ある朝、ドギーの家族の皆が放牧に行ったあと、旅行者の私はゲルに一人で残っていた。
放牧から帰ってきたドギーはこの時、何度目かのスーティツァー(ミルクティー)を沸かし、私に「ツァーオー」(お茶を飲みなさい)と言って、出来たてを勧める。
そして残ったまだ熱いスーティツァーは、この魔法瓶に詰めて、後で帰って来る夫や不意の客のために備える。
ドギーは退屈そうな私を見て、「これから丘の向こうの友達のゲルに、肉を届けるから一緒に行こう」と誘う。
私は既にこのマイナス30度の寒さには慣れていたので、喜んで彼女に従うことにした。馬で行くと思ったが、徒歩で行くらしい。
ゲルの外はそれほど深くはないが雪が積もっている。そして当然に寒い。
吐く息は白くなるばかりか、氷結して目の周りにこびりつく。
いつの間にか、放牧したはずの牛が2,3頭、ゲルのすぐ側に戻って来ていた。 そして何故か私が、その牛を追って草原に戻す役目になった。
50センチ位の細い棒の先に1メートル位の革紐が付いた鞭を一つ手渡された。これで牛の尻を打って追えというのだ。しかしこんな迫力のない鞭で、大きな牛の尻を打ったところで、効果の程は怪しかった。
この時ふとある方法がひらめいた。この鞭で、手首のテクニックを使って、空中でパチンと大きな音を鳴らすのだ。
このやり方は図に当たった。「パチン」と音を立てるたびに、牛はビクッとして前に進む。
ドギーもこれには驚いた様子。どうやってやるのかと私に訊くが、即興で開発した技なので教えようがない。
そのうち丘は急な上り坂になり、冬の草原に不慣れな私はだんだんと息をするのが苦しくなってきた。
ドギーはそんな私を見て、こうやって鼻から空気を吸うのだ、と自分でやってみせる。
私も真似て彼女の深呼吸をやってみるが、とにかくこの雪の坂道はきつい。
何とか休むきっかけを作ろうと思案していると、私の悪い癖、悪戯心が沸々と湧いてきた。
私は思いっ切り吸い込んだ息をいきなり止め、遂に失神したフリをして雪の上に仰向けにぶっ倒れてみせた。
そのまま目を閉じて動かないでいると、ドギーは急いで私に駆け寄ってきた。 そして「カドター、カドター」と私をゆする。本当に心配している様子。
これは拙いと思い、私はパッと目を開けてニッコリと笑ってみせた。
ドギーは目に涙をため、やや引きつった表情で私を見ていた。
すぐに彼女は微笑みを返してくれたが、予想以上に心配させてしまったようだ。本当に済まないことをしたと思った。♣